合戦との関わり
兵糧攻めに際して秀吉が築いた包囲網の内、山稜地帯に残る陣城の多くは今日でも良好に遺存する。その中枢に位置するのが、後に太閤ヶ平と呼ばれる陣城群の本陣である。太閤ヶ平は、鳥取城跡本丸(標高263m)から東側1.3kmの本陣山(標高251m)に所在する。
当時、中国地方は毛利氏の勢力下にあったものの、毛利方は織田方と接する中国地方東端の勢力を後退しつつあった。その形勢を逆転するためには、毛利方が後詰め決戦を鳥取で行うと織田方は予想していた。そのため、天正8年(1580)11月下旬、織田信長は翌年鳥取へ出陣することを決断する。よって太閤ヶ平は、兵糧攻めの包囲網の本陣であると同時に、織田信長の出陣を前提に築かれたものであった。
城跡を歩く
太閤ヶ平へは、久松山の山頂にある鳥取城跡本丸から、山中を進む対陣コースのほか、市街地から直接、太閤ヶ平へ登る道がある。このうち、初心者にもお薦めなのが、鳥取東照宮の鳥居脇から3.5kmのなだらかなアスファルト道を約1時間半程度歩くものである。
太閤ヶ平に近づくと左手に、鳥取城のほか、吉川経家が補給路として整備した雁金山城や丸山城などの山並みや、遠く海城であった大崎城も望むことができる。さらに進むと中国自然遊歩道の看板手前左にある下りの山道が、鳥取城へ繋がる対陣コースとなる。そのまま約150m進むと、右手に太閤ヶ平の説明板があり、その背後が太閤ヶ平の空堀と土塁である。
空堀に沿って奥へ進むと搦手虎口に至る。平虎口だが、片方から横矢が掛かる。内部に入ると約58mの方形区画の全周を土塁が囲む。鳥取城側の2隅の高まりが櫓台だ。また、鳥取城側から最奥部にあり三方を土塁に囲まれた窪地状吐出部は、織田信長の寝所としても築かれた天主の跡ではないかと指摘されている。
大手虎口は、搦手虎口に入って左前方の開口部である。大手虎口を出ると正面に幅約10mの直線の大手道が取り付く。また、虎口前土橋両端には現状の最深部で深さ3mの空堀を伴い、高さ5mの櫓台などで両側面から攻撃できる。
太閤ヶ平は、鳥取城の兵糧攻めとともに、秀吉の三大城攻めと称される三木城攻めの本陣、備中高松城の水攻めの本陣と比較しても、圧倒的な規模と構造を誇る。そもそも太閤ヶ平は、戦いの際に臨時的に築かれた陣城ともいえる。しかし、織田信長の一代記である『信長公記』には、陣城の表記を「御取出」「御陣取」「付城」とするが、その中で、唯一、「大将軍の居城」と表記された陣城が太閤ヶ平であった。当時の呼称から大将軍とは織田信長の尊称であり、太閤ヶ平は織田信長の居城として築かれたのである。また、同書には、「毛利と雌雄を決するために幾年も在陣すべき準備がなされた」と記されており、太閤ヶ平には、織田信長を満足させる天主や御殿、庭園が築かれたと考えられる。
アクセス
所在地:鳥取市栗谷町・百谷
公共交通:JR鳥取駅からバス17分、「樗谿公園やまびこ館前」バス停下車、徒歩3分で登口
車:山陰道鳥取ICから20分
駐車場:有