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幻の一大決戦!秀吉vs毛利 ~真説「鳥取城の戦い」~を巡る

幻の一大決戦!秀吉vs.毛利 〜真説「鳥取城の戦い」〜
秀吉が仕掛けた包囲戦「鳥取城の戦い」
幻の一大決戦!秀吉vs毛利 ~真説「鳥取城の戦い」~を巡る

幻の一大決戦!「鳥取城の戦い」とは…

1.織田信長が『名城』と評した鳥取城

鳥取城は、戦国時代の山城を起源に、江戸時代、鳥取藩三十二万石の居城として整備された。現在、山麓の城跡を江戸時代の姿に復元する取り組みが進み、日本最長の城郭復元木橋『擬宝珠橋』や日本唯一の球面石垣『巻石垣』などの見所も多いが、歴史的に著名なのは、羽柴秀吉による兵糧攻めであろう。

天正4年(1576)、織田信長に追われた足利義昭が、毛利領国に下向すると織田と毛利は対立し、翌年、信長は中国方面攻略のため羽柴秀吉を出陣させた。これにより中国地方東部は織田毛利両勢力の戦場となる。そのうち鳥取城を巡る戦いは、毛利の主力部隊が因幡国(鳥取県東部)の本城たる鳥取城の援軍に動くとなれば、織田信長自ら出陣し、雌雄を決すると予告した極めて重要なものであった。

東播磨の三木城を陥落させた羽柴秀吉は、天正8年(1580)5月、鳥取城を攻め、秀吉は一気に力攻めする計画であった。しかし、鳥取城は、後に信長自らが『名城』(信長公記)と称し、優れた防御性から『日本にかくれなき名山』(石見吉川家文書)とも称された山城である。織田信長の指示によって、秀吉は包囲戦へ作戦を変更し、当時の城主、山名豊国は降伏する。

 しかし、秀吉が帰陣し、毛利方が勢力を盛り返すと、重臣らは山名豊国を追放。毛利氏領国の山陰方面を担当した吉川元春に、秀吉に対抗しうる新しい城兵の派遣を要請した。

鳥取城跡と久松山


2.吉川経家の戦略と兵糧攻め

この事態に鳥取城主に任じられたのが、石見国福光城主(島根県大田市)吉川経家である。天正9年3月、鳥取城に入った経家は、因幡国一円の毛利方を結集し、雪の季節まで籠城戦に持ちこたえれば、勝機はあると見た。兵糧の確保ができれば…、である。しかし、当時因幡国一円は米不足であった。前年の秀吉軍による略奪や苅田で、田地が荒廃し不作を招いたからである。そのため、経家は、吉川元春に兵糧の支援を要請する一方で、日本海からの補給路を構築した。まず、千代川を介して日本海と直結した丸山を出城として、丸山城から鳥取城へと続く尾根伝いに雁金山城を築いた。また、毛利勢力下の西伯耆(鳥取県西部)に向け、海城である大崎城(鳥取市小沢見)などの防御を強化した。さらに、上述の補給路が遮断された場合に備え、大崎城から陸路南下し、湖山池西岸の防己尾城(鳥取市金沢)などを介した補給路を確保し決戦に備えた。

一方、秀吉は、2万とも言われる大軍を率い、7月中旬には鳥取城の東、後の太閤ヶ平に着陣した。また、秀吉は、前年の信長の指示に従い、鳥取城を取り囲むように約70の陣城を設け、総延長12キロ以上にも及ぶ強固な包囲網を築き、兵糧攻めを敢行した。さらに毛利勢から陸路の補給路を断絶させるため亀井茲矩に鹿野城(鳥取市鹿野町)を前年から引き続き死守させた。

兵糧の支援を要請された吉川元春は、海路、兵糧の輸送を試みたが、各地で船を沈められ、その望みも絶望的となった。鳥取城には、城兵とともに避難してきた民衆の計4000人程度が立て籠もっていたという。10月下旬、兵糧が底を尽き悲惨な状況を前に、吉川経家は降伏を決意。籠城衆の命を助けること条件に自刃して果てた。10月25日早朝、経家、享年35歳であった。この時、毛利勢の主力を率いた吉川元春は、鳥取城の西に約40㎞まで進軍していた。しかし、鳥取城まで到着することができず、ここに織田信長の出陣も幻に終わる。

鳥取城跡 山上ノ丸

幻の一大決戦!「鳥取城の戦い」の舞台を巡る
1.太閤ヶ平(たいこうがなる)

  • 太閤ヶ平から望む久松山
  • 大手道
  • 大手空堀底から大手虎口土橋越しに櫓台を望む
  • 窪地状突出部から大手虎口を望む
  • 窪地状突出部内部
  • 搦め手虎口
  • 大防衛ライン
  • 鳥取城から望む天徳寺山城・雁金山城・丸山・日本海
  • 鳥取東照宮から太閤ヶ平へ向かう道
  • 吉川経家墓所

合戦との関わり

 兵糧攻めに際して秀吉が築いた包囲網の内、山稜地帯に残る陣城の多くは今日でも良好に遺存する。その中枢に位置するのが、後に太閤ヶ平と呼ばれる陣城群の本陣である。太閤ヶ平は、鳥取城跡本丸(標高263m)から東側1.3kmの本陣山(標高251m)に所在する。

当時、中国地方は毛利氏の勢力下にあったものの、毛利方は織田方と接する中国地方東端の勢力を後退しつつあった。その形勢を逆転するためには、毛利方が後詰め決戦を鳥取で行うと織田方は予想していた。そのため、天正8年(1580)11月下旬、織田信長は翌年鳥取へ出陣することを決断する。よって太閤ヶ平は、兵糧攻めの包囲網の本陣であると同時に、織田信長の出陣を前提に築かれたものであった。


城跡を歩く

 太閤ヶ平へは、久松山の山頂にある鳥取城跡本丸から、山中を進む対陣コースのほか、市街地から直接、太閤ヶ平へ登る道がある。このうち、初心者にもお薦めなのが、鳥取東照宮の鳥居脇から3.5kmのなだらかなアスファルト道を約1時間半程度歩くものである。

太閤ヶ平に近づくと左手に、鳥取城のほか、吉川経家が補給路として整備した雁金山城や丸山城などの山並みや、遠く海城であった大崎城も望むことができる。さらに進むと中国自然遊歩道の看板手前左にある下りの山道が、鳥取城へ繋がる対陣コースとなる。そのまま約150m進むと、右手に太閤ヶ平の説明板があり、その背後が太閤ヶ平の空堀と土塁である。

空堀に沿って奥へ進むと搦手虎口に至る。平虎口だが、片方から横矢が掛かる。内部に入ると約58mの方形区画の全周を土塁が囲む。鳥取城側の2隅の高まりが櫓台だ。また、鳥取城側から最奥部にあり三方を土塁に囲まれた窪地状吐出部は、織田信長の寝所としても築かれた天主の跡ではないかと指摘されている。

大手虎口は、搦手虎口に入って左前方の開口部である。大手虎口を出ると正面に幅約10mの直線の大手道が取り付く。また、虎口前土橋両端には現状の最深部で深さ3mの空堀を伴い、高さ5mの櫓台などで両側面から攻撃できる。

太閤ヶ平は、鳥取城の兵糧攻めとともに、秀吉の三大城攻めと称される三木城攻めの本陣、備中高松城の水攻めの本陣と比較しても、圧倒的な規模と構造を誇る。そもそも太閤ヶ平は、戦いの際に臨時的に築かれた陣城ともいえる。しかし、織田信長の一代記である『信長公記』には、陣城の表記を「御取出」「御陣取」「付城」とするが、その中で、唯一、「大将軍の居城」と表記された陣城が太閤ヶ平であった。当時の呼称から大将軍とは織田信長の尊称であり、太閤ヶ平は織田信長の居城として築かれたのである。また、同書には、「毛利と雌雄を決するために幾年も在陣すべき準備がなされた」と記されており、太閤ヶ平には、織田信長を満足させる天主や御殿、庭園が築かれたと考えられる。


アクセス

所在地:鳥取市栗谷町・百谷

公共交通:JR鳥取駅からバス17分、「樗谿公園やまびこ館前」バス停下車、徒歩3分で登口

車:山陰道鳥取ICから20分

駐車場:有

2.丸山城と雁金山城

  • 雁金城山城遠景(中央のピーク)
  • 千代川の旧可道と丸山城、雁金山城、鳥取城、太閤ヶ平
  • 奈佐日本介・塩冶の墓と供養塔
  • 平和記念塔入口
  • 赤松八幡宮跡

合戦との関わり

丸山城(標高83m)は、吉川経家が海路から鳥取城への補給路を確保するために築いた出城で、奈佐日本之助が守備した。当時、周辺の河川流路は今日と異なり、日本海へ続く千代川は、丸山城の西麓に接し、船で兵糧を運び込むことができた。一方、雁金山城は、丸山城と鳥取城の間に横たわる尾根の最高所(標高140m)にあった繋ぎの城で、塩冶周防守高清が守備した。しかし、織田方の宮部継潤が鳥取城と雁金山城の間の峠から猛攻を加え、塩冶周防守は丸山城に逃れ、鳥取城への補給は断たれることになる。


城跡を歩く

丸山城のなだらかな頂には広い平坦面が残るが、道が廃絶し登ることはできない。しかし、西麓には、鳥取城落城に際し秀吉の命で切腹した奈佐日本助、塩冶周防守の墓と供養塔がある。

 一方、雁金山城には、湯所の天徳寺から北西約1㎞の地点、赤松八幡宮跡の祠から登るルートと、天徳寺上、円護寺トンネル脇から登るルートがある。この道中には2つの山のピークがあるが、白亜の平和記念塔が建立された場所が、天徳寺山城と伝わる陣城である。塔の基壇からは市街地や鳥取城を一望することができる。

雁金山城は、平和記念塔から北西約170mの地点、標高140mの頂部を中心に築かれた。主郭から伸びる尾根に小曲輪を配す他、高い切岸を持つ帯曲輪が残る。

丸山城から鳥取城へと連なる山伝いの頂には、雁金山城や天徳寺山城を含め、計7ヶ所の陣城遺構が残り、鳥取城の補給路として痕跡を伺うことができる。

アクセス

【丸山城(奈佐日本之助・塩冶周防守高清墓所)】

所在地:鳥取市浜坂

公共交通:JR鳥取駅からバス14分、「丸山」バス停下車、徒歩7分

車:山陰道鳥取ICから16分

駐車場:有(重箱緑地公園駐車場利用)


【雁金山城】

所在地:鳥取市湯所1丁目

公共交通JR鳥取駅からバス10分、「湯所」バス停下車、徒歩15分で登口

車:山陰道鳥取ICから18分

駐車場:無

3.大崎城

  • 大崎城遠景
  • 大崎城から千代川河口方面ぞ望む
  • 大崎城入江
  • 大崎城への道
  • 大崎城への道
  • 大崎城への道
  • 曲輪(くるわ)跡
  • 大崎城から西側を望む
  • 大崎城から南側を望む
  • 大崎城入口

大崎城は、丸山城から西へ約11kmに位置した海城である。日本海へ張り出し三方を断崖に囲まれた標高94mの岬に築かれた。大崎城と丸山城の間は、砂丘海岸であり、岩陰など遮るものがない。従って、山麓に港機能を持つ入り江を有した大崎城は、丸山城への兵糧搬入可能な海城のうち最後の拠点であったが、鳥取城落城1ヶ月前に山下が焼き払われた。

アクセス

【大崎城】

所在地:鳥取市小沢見

公共交通:JR鳥取駅からバス45分、「小沢見」バス停下車、徒歩10分

     JR湖山駅からバス20分、「小沢見」バス停下車、徒歩10分

車:山陰道鳥取西ICから20分

  山陰道吉岡温泉ICから11分

駐車場:有 ※海水浴時期は混雑する。

4.防己尾城(つづらおじょう)

  • 防己尾城遠景

防己尾城は、湖山池西岸に突き出た標高39mの丘陵に築かれた。「因伯仕切りの城」として重視された鹿野城や海城である大崎城への補給路を抑える要衝であった。この地の国人で毛利方の武将、吉岡将監が守り、鳥取城を包囲する秀吉方の背後を脅かした。そのため、秀吉によって三度攻撃されるも全て勝利。秀吉軍から千成瓢箪の馬印を奪ったことでも知られ、鳥取城落城まで持ちこたえたという。


【防己尾城】

所在地:鳥取市金沢

公共交通:JR鳥取駅からバス45分、「つづらを」バス停下車すぐ

     JR湖山駅からバス20分、「つづらを」バス停下車すぐ

車:山陰道吉岡温泉ICから3分

駐車場:有

5.鹿野城

  • 鹿野城遠景
  • 天守台跡
  • 天守台跡へ向かう道
  • 天守台から鹿野城下町を望む
  • 城山神社
  • 城山神社から鹿野城下町を望む
  • 鹿野城址
  • 城山神社、鹿野城址入口
  • 鹿野城址 お堀の桜
  • 鹿野城址 お堀の桜

鹿野城は、鳥取城から西やや南寄り約20㎞の地点、標高150mの山体に所在する。因幡国(鳥取県東部)と伯耆国(鳥取県中西部)を内陸部で繋ぐ交通の要衝にあり、「因伯仕切りの城」として重視した毛利氏は、城を改修するとともに、鳥取城主であった山名豊国の人質を置き、因幡支配の重要な拠点とした。

 天正8年(1580)、鳥取城に迫った羽柴秀吉が鹿野城を攻めた際、毛利方は山名豊国の人質を引き渡したことなどから、鳥取城主山名豊国は、秀吉に降伏した。その後、毛利方の勢力が盛り返す中、翌年、鳥取城が落城するまで、亀井茲矩が鹿野城を死守し、毛利方の陸上による補給路の遮断に成功する。

 今日の城跡の姿の内、その多くは、亀井茲矩が関ヶ原合戦後に整備したものである。息子である政矩時代に津和野(島根県)へ転封することになり、まもなく廃城した。


アクセス

所在地:鳥取市鹿野町鹿野

公共交通:JR浜村駅からバスで20分、立町バス停下車徒歩5分

車:山陰道浜村鹿野温泉ICから8分

駐車場:有

鳥取市歴史博物館(やまびこ館)常設展示室でもっと詳しく

中世~近世の歴史

鎌倉時代から戦国時代の因幡国の動向を展示しています。天正9年に起こった鳥取城の兵粮攻めが、武将たちの布陣模型でわかりやすく展示しています。

また、その後の江戸時代の鳥取藩や大名池田家の歴史を中心に信仰、生業、医療、文化など様々な分野の展示があります。鳥取城下の模型と映像で32万石の城下町を体感してください。

Column

音声ペン(多言語対応)でさらに詳しく

鳥取市歴史博物館(やまびこ館)受付に申し出ていただきますと、音声ペン(日本語・英語・中国語・韓国語)の貸出サービスを受けることができます。入館パンフレット(常設展示室フロア案内と樗谿お散歩マップ)のペンマークがついた数字やイラストをタッチしていただくと音声ガイドが流れます。ぜひご利用ください。